略歴

出口 治男 (でぐち はるお)

1945年(昭和20) 石川県松任町(現白山市)で出生、鶴来町(現白山市)で育つ

1967年(昭和42) 金沢大学法文学部法学科卒業、司法試験第二次試験合格(22期)

1970年(昭和45)~1981年(昭和56) 裁判官(勤務地前橋、金沢、大阪、富山の高岡)

1981年(昭和56) 弁護士登録 京都弁護士会入会、現在に至る

1986年(昭和61)~ 2016年(平成28年)  家事、民事調停委員

1991年(平成3)~1993年(平成5) 日弁連少年法改正対策本部本部長、(名称改称後)子どもの権利委員会委員長

1997年(平成9) 京都弁護士会会長

1998年(平成10)~2001年(平成13)  財団法人法律扶助協会京都支部長

1998年(平成10)~2005年(平成17)  宇治市情報公開審査会委員、同市個人情報保護審議会委員

1998年(平成10)~1999年(平成11)  城南衛生管理組合情報公開審査会会長

2005年(平成17) 日弁連副会長

2007年(平成19)~2012年(平成24)  日弁連教育法制対策問題委員会委員長

2008年(平成20)~2011年(平成23)  日本司法支援センター(法テラス)京都地方事務所所長

 

 

 略歴をご覧頂くとかなりスンナリと法律家の世界に入ったようにみえるかもしれませんが、中学時代から大学時代まで家計を支える為に必死に仕事をし、そのかたわら受験勉強をしてきました。「庶民」のために尽くしたいという私の考えは、そのような自分の体験に基づくものです。大学を卒業した年に司法試験に受かったのは運がよかったからと思っています。

 裁判官のとき、青年法律家協会という最高裁が目の敵にした組織に入っていました。大した組織でなく、辞めてもよかったのですが、最高裁が「そんなところへはいることはまかりならん」といわれたので、「そこまでいうならやめない」といって退官まで所属していました。お蔭で、任地はともかく、仕事の割り当てではワリをくいました。最初の10年のうち半分の5年間を家庭裁判所の仕事ばかりやらされ、同期の裁判官のなかでは最も家裁勤務の長い裁判官でした。しかし、何が幸いするのかわかりません。家裁勤務中に少年事件、家事事件に関する論文を書き、弁護士になってからは少年法の問題で法制審議会 での議論にも関与しました。又調停委員として家事事件を今も担当しているのも、そのような経歴がモノをいっているのかもしれません。
 裁判官時代は、刑事3年、民事3年、少年5年(うち2年は専任)、家事5年(うち3年は専任)で、すべての分野を担当しました。それぞれ思い出に残る事件があります。いまでは遠い過去ですが、鮮明な記憶として残っているのは初心のころだったからかもしれません。

 弁護士になってからは、世界がウンと広がりました。金沢出身、京都では勤務したことがなく、京都に縁の薄かった私を快く受け入れてくださったのは京都弁護士会所属山口貞夫先生。大学の大先輩でした。紹介してくれたのが司法研修所同期同クラスの北條雅英君でした。約31年余にわたって様々な分野での活動を自由かつ存分にさせて頂いたのは、京都弁護士会の皆さんの懐の深さです。いずれに対しても感謝、感謝です。

趣味

 趣味は、以前は春・夏・秋は野球、冬はスキーでした。6年間京都弁護士会野球部監督として野球部を鍛えたり、毎年ニセコへいった頃のことが懐かしい。最近は国宝、重要文化財の指定を受けている寺社、仏像巡り。温泉びたり。あとは万葉の故地、芭蕉、一遍とその弟子真教等の足跡をたどり、ゆっくりと歩きまわること、「一向一揆の研究」の勉強をすることです。

活動分野

 少年、家事、教育、福祉、行政というあたりが専門分野です。もちろん一般民事事件、一般刑事事件が仕事の主流であることは申すまでもありません。要は「庶民」の皆さんの悩んでおられることについては、全身全霊で耳を傾け、知恵を絞って参りました。

① 少年審判における「教育的機能について」
  [1976年(判事補6年目)法律時報48巻10号所収]

② 少年審判の運営

  [1977年(判事補7年目共著)]

③ 検察官送致決定後の余罪を家庭裁判所に送致することの要否
  [1979年(判事補9年目)別冊判例タイムズ第6号所収]

④ 遺産分割審判における清算的契機の展開
  [1980年(判事補10年目)最高裁判所刊、家庭裁判論集所収]

⑤ 家庭裁判所の現状と問題点
  [1982年(弁護士2年目)法律時報59巻9号所収]

⑥ 行政当局には社会保障情報の広報・周知徹底義務はないのか
  [1993年(弁護士12年目)貸金と社会保障1118号所収]

⑦ 社会福祉法の新しい動向
  [1995年(弁護士14年目)ジュリスト増刊「福祉を創る」所収]

⑧ 非行事実審理のあり方について
  [1996年(弁護士15年目)「犯罪と非行」(財団法人矯正福祉会)109号所収、のち「非行事実の認定」(弘文堂)として共著出版]

⑨ 判事補制度の廃止を訴える
  [        年(弁護士 年目)「自由と正義」 巻 号所収]

⑩ 行政の社会保障(児童扶養手当)情報広報義務ー永井
  [2007年(弁護士18年目)実務社会保障法構成共著]

11.カウンセラーのための法律相談
  [2009年(弁護士28年目)監修共著]

12.心理臨床の法と倫理
  [2012年(弁護士31年目)共著]

 

以上の外に京都弁護士会会報、日弁連子どもの権利通信等掲載の論文多数


《 1.生い立ちなど 》

 1945年(昭和20)2月石川県松任町(現白山市)で出生。3歳~17歳まで同県鶴来町(現白山市)で暮らし、17歳時に家の経済事情のため金沢市へ移住。25歳まで金沢市で暮らす。手取川の化石、舟岡山の縄文遺跡・土器、白山比咩神社(加賀一宮)の膝元で神皇正統記、国宝刀剣に接して青年前期を過し、高校と大学時代を金沢で過し、加賀前田家の文化に接して成長した。

《 2.法律家の道 》

 1967年(昭和42)3月金沢大学法文学部法学科卒。1966年(昭和41年)大学4年生のときに司法試験口述試験に失敗し、奨学金がないと暮らしていけないので、学部を卒業して同法学科専攻科へ進む。卒業した年の9月司法試験合格(司法研修所22期)。専攻科中退。

 1970年(昭和45)4月判事補、1980年(昭和55)4月判事となるが、1981年(昭和56)4月判事退官。この間前橋地裁、金沢家裁、同地裁、大阪家裁、富山地家裁高岡支部(砺波支部支部長を兼務)を転勤して歩いた。司法の危機の時代を裁判官として過した。本人の主観では、青年法律家協会裁判官部会、裁判官懇話会に深くコミットしたため任地及び職務上かなり冷遇されたと認識している。1981年(昭和56)5月弁護士登録(京都弁護士会に入会)。修習同期同クラスの北條雅英君の紹介で、京都の山口貞夫先生(大学の先輩)の事務所に入所(洛陽法律事務所)。1985年(昭和60)4月、北條君と葵法律事務所を設立。以後2011年(平成23)4月解散迄同事務所で活動。

《 3.公的活動歴 (判事退官後弁護士として) 》

■はじめに(私の覚悟)
 私は、裁判官を辞めるとき、ふたつのことをライフワークとすることを心に決めていました。ひとつは、司法の危機時代を体験したことから、司法の問題に終生かかわり続けること。もうひとつは、11年間の裁判官生活時代、本人は希望しなかったのに最高裁から発令された家庭裁判所(判事補10年のうち5年を家裁専門で過しました。家裁には裁判官11年のうち8年間関係しました。)の少年家事事件を担当するうちにそれら事件の奥深さに目覚め、終生少年事件、家事事件にかかわり続けること。このふたつが弁護士になってからの私の大きなテーマでした、その結果、

■調停委員
 1986年(昭和61)4月~現在まで京都家裁家事調停委員・京都簡裁民事調停委員を続け、特に家事事件の研鑽に務めてきました。現在調停委員の経験が最も長いはずです。

■少年事件研究と活動
 少年事件については、裁判官時代から守屋克彦、大内捷司、多田元氏らの諸先輩とともに研究会を行い、いくつかの論文を発表してきましたが、弁護士になってから、京都弁護士会で子どもの権利委員会で付添人活動や少年電話相談活動等をリードし、実務を通して少年法研究に関わってきました。それらの活動を踏まえて

ア)1991年(平成3)6月~1993年(平成5)6月まで、日弁連少年法改正対策本部長となり、1993年に対策本部が子どもの権利委員会と改称し、私が初代の同委員会委員長となりました。委員会の名称は私の命名によります。

イ)1998年(平成10)9月~1999年(平成11)1月までの間、主として事実認定手続の仕組みを改革するための少年法改正が法制審議会少年法部会で検討されたとき、私は日弁連推薦の委員としてこの改正論議に加わりました。日弁連委員3人、幹事1人は悪戦苦闘して論陣をはったことが懐かしい思い出です。

《 4.司法問題へのコミット 》

 司法の問題については、私は相当長い期間日弁連司法問題対策委員会の委員をし、判検交流問題、司法試験改革問題、民事訴訟法改正問題等について様々な発言をしてきました。1997年(平成9)4月、私は京都弁護士会会長に就任しましたが、このとき法曹一元を日弁連の方針とすることに寄与しました。京都弁護士会の会長を終えた後、翌1998年(平成10)4月、慣例どおり財団法人法律扶助協会京都支部長になりました。ところが、それまで支部長は1年毎に前年度の会長が務めるということになっていたのですが、いろいろな事情が重なって、2002年(平成14)3月までの4年間私が支部長を務めるという異例の事態になりましたが、その間京都支部は著しく充実し、扶助件数も2000年(平成12)には、東京、大阪に次いで全国で第3位となる実績をあげるまでになりました。私は、2006年(平成18)10月に日本司法支援センター(法テラス)が設立されて2年後の2008年(平成20)4月から2011年(平成23)4月までの3年間法テラス京都地方事務所所長になりましたが、私が司法の問題にかかわり続けたことの最後の務めということになりました。

《 5.その他の公的職務の従事 》

 この間私は、一般的な民事、刑事事件のほかに、福祉、公害、教育等の事件に積極的に取り組みましたが、思いがけず公的な仕事を仰せつかったことがありました。それは、

■情報公開審査委員等
 1998年(平成10)~2005年(平成17)宇治市情報公開審査会委員、同市個人情報保護審議会委員、さらに2001年(平成13)~2005年(平成17)まで城南衛生管理組合(宇治市、久御山町等の一部事務組合)情報公開審査会会長として、情報公開審査と個人情報保護審議の仕事に携わりました。個人情報に関する条例、法律の制定にともなう新しい運用に関与した意義深い経験でした。

■日弁連副会長、教育基本法改悪問題担当
 私は2005年(平成17)度日弁連副会長をしましたが、そのとき教育基本法改悪問題の担当となりました。教育問題は、誰もが一家言を持ち、日弁連として全国の意見を集約することが極めて困難視されましたが、担当副会長として日弁連意見を集約し、かつ全国全ての単位弁護士会で教育基本法改悪反対決議をあげてもらったことは画期的なことであったと思っています。日弁連として反対運動を展開しましたが、東京日比谷野外音楽堂で万を超える聴衆を前に反対演説を行ったこと、参議院の教育基本法を審議する特別委員会の公聴会で、公述人として意見を述べたことは、個人的には印象深い経験でした。そうした経緯から、日弁連副会長の任を終えたあと、日弁連教育法制対策委員会が設置されることになり、私が委員長となって、2010年(平成22)12月まで委員長を務めました。

■信用組合京都商銀金融整理管財人
 全く異色の仕事としては、2001年(平成13)4月に金融庁長官によって、破綻した京都の韓国系金融機関である信用組合京都商銀の金融整理管財人に任命されたことです。銀行に関する仕事をそれまで全くしたことがなかった私になぜ白羽の矢が立ったのかわかりませんでした(あとで、あるところから裏事情をきき驚きましたが、私を推薦して下さった方には深く感謝しています)が、2002年(平成14)5月近畿産業信用組合に事業譲渡するまでの私の仕事は、結局は金融行政における公正と正義の追求であったと思っています。

■葵橋ファミリークリニック理事長就任
 厳密にいえば公的職務とはいい難いところがありますが、2000年(平成12)6月、私は京都地裁第5民事部から、労使紛争中の社団法人葵橋ファミリークリニック再建のため、仲裁裁定委員会をつくりその委員会で再建案を提案してもらい、それをもとに再建していくことにしたが、その委員になって貰いたいとの依頼をうけて引き受けました。私が中心になって裁定案を作り、それをもとに再建を進めることになりました。お前が作った裁定案だから、お前が理事長になって再建を図れ、ということになり、今日まで私が理事長をしています。クリニックの行っている仕事は公的性質を帯びたものであり、医療、教育現場等で制度上の不備等のためその機関が担い切れない問題の受け皿となる重要なカウンセリング機関ですが、法律家として、対人援助専門の貴重な機関を運営することを通して、社会正義の追求、実現に日々寄与していることを実感できる喜びを味わっています。

私が追い求めてきたもの

《 1.私の原点-貧困、そして働くひとびと 》

 生い立ちにもちょっと書きましたが、私の家は私の中学生の頃から経済が傾き始め、高校3年(1962年(昭和37))の頃にはひどい状態になり、もう二進も三進もいかなくなっていました。高校3年の11月に、鶴来町から金沢市へ移住しましたが、殆どすべての財産を失っての移住でした。5人きょうだいの長男であった私は、心身共に萎えた父母を支え、4人の妹弟をなんとか食べさせる責任を負いました。一家総出の新聞配達の中心は私でした。経験したことのある人にとっては恐怖の三八豪雪の中を、毎朝毎夕新聞を配り続けました。野原の一軒家へたった1枚の新聞を配達するのに、数十分を費やす毎日でした。大学受験の日も、もちろん朝夕の新聞配達をしていました。のちに司法試験を受験するようになったときも、受験当日朝夕の新聞配達をしていました。大学生活5年間、わが家を支えたのは一家総出の新聞配達、私の奨学金・1週7回の家庭教師代、春、夏、冬の長期休暇中のアルバイト代でした。私は、このように、中学生の頃からずっと生活の苦しみの中にありました。私自身のことよりも、父母、妹や弟達の生活を成り立たせなければならないという責任感で過ごしてきました。この間、父母の病気、父の刑事裁判等が相次ぎ、激動のなかで、私がすべてを支えてきたのです。ケネディ暗殺、三島由紀夫の自害、学生運動の高揚等のなかで、セクトの学生と付き合うこともありましたが、実生活に根差さない彼らの議論に失望し、離れました。いまの若い人達はあまり知らないでしょうが、全共闘運動を支持し、若くして死んだ高橋和巳の「憂鬱なる党派」「邪宗門」「暗殺の美学」「散華」等の沈鬱な小説、柴田翔、真継伸彦の小説を耽読したものでした。孤独な青の時代でした。

《 2.私の迷い 》

 幸い、私は大学を卒業した年の9月に司法試験に合格することができました。一体いつ司法試験の受験勉強をする時間があったのか。新聞配達、アルバイトに明け暮れた私にはいまとなってもその時間を捻出できたことを不思議に思うくらいです。晴れて司法研修所に入所したあと、しかし、私は父母や弟達の生活を支えるために、切り詰めた生活を続けることを余儀なくされました。勉強をすることはしましたが、生活の苦しさから逃れることはできませんでした。修習も終わりに近づいたとき、青年法律家協会員は裁判官になることができないそうだ、という情報が私達のなかに入ってきました。生活苦の只中にあった私には、弁護士として活動し、金儲けをするという選択肢もあったでしょうが、なぜか私としてはそうした思いを持つことが一度もありませんでした。弁護士になるのだろうな、という漠然とした思いはあったものの、なかなか形にならないでいるときに青法協問題が勃発したのです。

《 3.裁判官になる 》

 結局私は裁判官になるという道を選びました。青法協会員のまま裁判官になるということは、困難を承知で裁判官になることです。それでもいいのだね、と繰り返し自問しながら、私は裁判官になりました。裁判官になって、こんなことをしたい、あんなことをしたい、なにかになりたい等という思いは全くありませんでした。最高裁の言いなりにはならない。そのことだけは誠にはっきりしていましたが、そのほかは、体験のなかで考えていこうという極めて大ざっぱな思いしかありませんでした。裁判官になったあと、私は刑事→民事→少年→刑事→家事→支部勤務をし、その間全ての分野について経験しました。目の前にくる当事者をどうしたら納得させ、あるいは満足させることができるか、ということに考えを集中してきました。そのための工夫ということが私の中心のテーマでした。論理から入るのではなく、目の前にいる当事者のもってきている現実に耳を傾け、そのなかからどのような解決がふさわしいかを考え、解決の仕方を突き詰める。論理の組立ては、その事件自体が決めることだ。事件を最終的に彫り刻む論理は、事件自体が求めているものを形にすることだ。私はこのように考えて、事件に接してきました。ひとの叫び、ひとの生きざま、ひとの営みと離れて論理を弄んではならない。それは法律家の倫理上許されない。このように考えてきたのです。そうした経験から、長くはない私の裁判官生活のなかで、刑事事件において3件の無罪判決を書き(これらはいずれも一審で確定しました。そのほかにも殺人未遂事件を暴行罪と認定する等起訴された事実を縮小して認定する判決も3件ありました)、少年事件と家事事件に関して実務ノート的な論文を書きました。民事裁判は合議1年、単独2年という短い経験でしたので、裁判例集に載る事件は2件しかありませんでしたが、いずれも私の実務上の経験を論理化したものでした。仕事のほかに、私は青法協裁判官部会や宮本裁判官の再任拒否をきっかけにして立ち上げられた裁判官懇話会の活動にずっとかかわりました。退官するまでかかわり続けました。私の役割は文字通り小使い役でした。次に続く人がいなかったため、私は最後まで小使い役でした。「出口君、大将になっている人はいいが、足軽は一番ワリをくうよ。」と、私の尊敬する裁判官は、私のことを気の毒がってみていました。

《 4.弁護士に転ずる 》

 弁護士になってのち、私は最高裁による制約から解放され、やりたい事件を存分にやってきました。少年や家事事件の分野は無論ですが、福祉、公害、教育等々の分野に担当事件がひろがり、弁護人の接見妨害事件、さらには自衛隊のイラク派遣差止事件にも関与しました。

《 5.庶民とともに-私の信念- 》

 この間バブルの時期に遭遇しましたが、鈍くさい私は、不動産取引事件に一件も当たりませんでした。地上げ事件を担当すれば、さしたる仕事をしなくても高額の報酬を手にできたのですが、なぜか私の前にそうした事件は一件も現れませんでした。かくて、私は、経済的な苦しみと立ち向かいながら、庶民とともに歩んできました。若い、まだ自分が法律家になる前に出会った名もない、働いても働いても楽にならない人達のことがずっと私の脳裏にありました。私に与えられている能力を、そうした人達のために使いたい。そうした信念で私は今日まで法律家の道を歩んできました。このあと私が法律家としてどれだけ活動できるかわかりませんが、その信念は終生かわることはありません。
 皆さんの語ること、訴えることに、私はじっくり耳を傾けます。できないこと、やってはいけないことのお手伝いはしませんが、全ての皆さんの苦しみや悩みを聴き、問題解決のために私の41年余りの積み重ねた経験に基づき、あらゆる知恵を絞ります。問題を抱えて苦しみ悩み、迷っている方々を、私は喜んでお迎えいたします。これまで取り扱ってきた分野は、民事、家事全般、行政事件、刑事・少年、学校事故、子どもの人権、高齢者・障害者問題等広い範囲にわたりますので、なんなりとご相談下さい。

《 6.私の信念 -一遍を想う- 》

 「法主(一遍自身のこと)軌則をこのまねば 弟子の法師もほしがらず誰を檀那と頼まねば 人にへつらふ事もなし」(一遍「百利口語」の一節より)
 「専ら平等心を起こして、差別の思ひを成すことなかれ。専ら慈悲心を発して、他人の愁ひを忘るることなかれ。専ら柔和の面を備えて、瞋恚の相を現はすことなかれ。」(一遍「時衆制誡」の一節より)
 「念仏の行者は知恵をも愚痴をもすて、善悪の境界もすて、貴賤高下の道理もすて、地獄をおそるゝ心もすて、極楽を願ふ心もすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてゝ申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。」(一遍「興願僧都、念仏の安心を尋申されけるに、書てしめしたまふ御返事」の一節より)
 「弥陀大悲のむねのうちに かの常没の衆生みちみちたるゆえに 機法一体にして南無阿弥陀仏なり われらが迷倒の心の底には 法界身の仏の功徳みちみちたまえるゆえに また機法一体にして南無阿弥陀仏なり」(「安心決定鈔」の一節より)
 法然の800回忌、親鸞の750回忌が本年(平成23年)営まれています。南無阿弥陀仏を称えればすべての衆生を救ってくださると、説いたのは法然でした。その法然の法理を実践したのが一遍そのひとでした。一遍の思想と実践は文字どおり渾然一体となっていますが、一遍流の教えを説いたともいわれる「安心安定鈔」のなかで述べられている常没の衆生と阿弥陀仏の一体を説く上の一節を私は愛してやみません。阿弥陀仏の救済の姿を、弥陀大悲のむねのうちに常没の衆生がみちみちているとあらわし、そして、われら常没の衆生の迷いの心の底に阿弥陀仏の功徳がみちみちているのだよ、と呼びかけてくれる。弥陀の大悲にわれらの迷う心が包まれ迷いのままに救われていくという思いが、私にはひしひしと伝わってくるのです。市の聖といわれた空也、遊行上人といわれた一遍の教えを、私は法の実践のなかで生かしていきたいと願っています。どうぞ事務所の扉を叩いて下さい。心からお待ちしています。